2009年4月20日(月)
定額給付金申請書

    
本日、 金沢市役所より「定額給付金申請書」が届いた。「定額給付金」の是非について意見を書くには、すでに時期的に遅すぎるので、きわめて簡単に書く。
    
        
@ 受け取るのか?

受け取る。
   
制度の問題点は大きいのだろうが、僕が受け取らないだけで、それが修正されるものでもない。制度そのものにはどちらかと言えば「反対」だが、必要な医療すら満足に受けられない現在の自分の低収入(僕は「ワーキング・プア」の一人である)という現状において、反対の意思表示のためだけに受け取らないという選択肢は無い。
  
      
A では、なぜ「反対」なのか?
   
この「定額給付金」そのものに反対というより、政府の施策として「国民の生活を守る」や「弱者救済」ための方法がもっと他にあり、より有効な対策にお金を使うべきではないかというのが基本的考え方だ。
   
たとえばひとつの例として「派遣」の問題がある。テレビでは「派遣切り」のニュースがめっきり少なくなった。ニュースが少なくなったことはいつものことながら新しいニュースばかりを追い求めるマスコミの体質であり、このことに関しては政府になんら責任は無いが、その問題点はまったく解決していない。さて、そもそも「派遣」という制度はなぜ広まったのか? 過去の歴史において、経営者側にとって都合の良い制度の法制化、さらには改悪がなされた経緯がある。派遣労働者という制度が作り出されたのは、「業績が悪くなれば簡単に解雇できる労働者」というものを企業側が求めたからにほかならない。だから昨年の秋のように景気が悪化すれば、こういう事態が起こることはまさに「想定内」なのだ。想定内というよりも、極論すれば、こういう不景気のときに労働者よりも企業を守るために、派遣という制度は作られてきたのだ。最近のテレビでは少なくなってきたが「人材派遣会社」のテレビコマーシャルがこの5年くらいよく流れていた。「いつでも仕事を変われる」「今日はここで仕事、明日はあそこで仕事」ということがまるで”カッコイイ”ことのようなCMを垂れ流して派遣のイメージアップを図ってきたきた(?)民放に昨年の一連のニュースをうわべだけ「大変です」と報道する権利はあるのか? もちろん、報道しないというのはもっと許されないことではあるのだが。しかし、いうまでもなく派遣をめぐる問題の責任の所在は、放送局ではなく政府にある。「終身雇用」という考え方が正しいのかどうかは僕にもわからない。ただ、基本的に「労働者は働かなければ生活に困る」のである。「企業がつぶれたらそこで働く労働者はもっと困る」ということも否定はしないが、国民生活あっての企業であり国家である。政府が国民よりも企業側(資本側)に立つというスタンスをまず改めない限り、いろいろな問題の根本は解決しないのだ。派遣をめぐる問題はひとつの例に過ぎないが、その施策により誰が得をし誰が犠牲になるのかを見抜く目を国民が持つことの必要性を改めて教えてくれているのではないか。
   
消費税の問題もある。この「定額給付金」が「消費税増税」とセットなのかどうかは、法律の文言的にはなんら関係ないので、ここで「セットだ」「セットじゃない」と争ってもしょうがないが、いずれにしろ3年後の税率アップは既定の路線のようである。諸外国に比べれば安いという議論も一部にあるが、@ 税制は社会保障や医療費等の生活に直結する制度と総合的に考えるべきであり、その「率」だけで高い安いと言ってもナンセンスである。A 税収不足と言いながら巨大な内部留保を維持する大企業の税率はなぜ上げようとしないのか、また一部「株主」の利益への課税と5万円の年金から絞り出す生活必需品購入費への課税の税率は、その考え方が適切であるといえるのか等、税制のみに限っても問題点が多く、単に「税収不足だからやむなし」とすることはできない。
    
社会保障費の問題についても、「年金」での記録の紛失や改ざんなど、加入者のことをまるで考えないおそまつな事態はここで改めて触れるまでも無い。医療費も、僕が健康保険に加入した頃には自己負担が1割であったものが、2割となり、3割になってきた。国民の生活はどんどん悪化してきているのだ。さらには生活保護の「打ち切り」の件数や率を「目標」を定めて実施した県の事例などは、わが耳を疑う。生活困窮者を切り捨てることはやっても、たとえばトヨタの13兆円の巨大な内部留保は、一部株主の収入確保のためには、それにこれ以上の課税をするなんてめっそうもございませんというのが政府の姿勢ではないか。数年前、「勝ち身」「負け組」という言葉が流行語のように使われていたが、国民のあいだでの格差の広がりは間違いの無い事実であり、その格差を作り出した要因のひとつに、施策の意味を考えることなくしゃべり方がカッコイイだけの小泉内閣での「改革」という美名の下での規制緩和施策があることも、まぎれのない事実だろう。おばちゃんたちが「キャー、素敵」といっている間に、その生活を取り巻く環境は悪化させられてきたのだ。そして、「勝ち身」「負け組」という考え方自体も、真の「敵」を覆い隠している。「負け組」の敵は「勝ち組」ではない。格差を作り出し、互いを敵とさせることで自らへの矛先をかわそうとする権力者の思惑にのっかてはいけないのだ。
    
繰り返すが、ある「施策」について考えるには、その施策により、誰が得をし、誰が犠牲になるのかを見抜く目を国民が持つことが必要だと思う。今、「定額給付金」はとりあえずは「得」であり、そして誰も「損」なんかしないように見えるかもしれない。しかし、給付金の財源は最終的には国民の税金なのだ。税金そのものを「損」と考えることは誤りではあろうが、その徴収方法、金額、そして使われ方が適切かどうかを考えることは重要である。また、「定額給付金」だけに限っても、麻生総理が受け取るのか受け取らないのかのくだらない国会答弁の「ぶれ」なんか問題ではない。たとえば同時期に問題となった解雇された派遣労働者が彼らに住居が無い場合には「住民票」の関係からこの給付金すら受け取れない可能性が高いことのほうがはるかに問題だ。高額所得者が貰うことがさもしいかどうかの発言がああでもないこうでもないと騒ぐより、今、現実に10円、100円に困っている人を救済するにはどういう手段があるのかまず考えるべきではないのか? 麻生総理や閣僚は、もらったら「景気浮揚のために盛大に使う」ことなんかしなくて良い。もらったら、とっとと首を切られ住む場所に困っている人のところに「詫び状」と一緒に持参すべきだ。
   

2009年3月14日(土)
小沢一郎氏への献金問題で思うこと

    
小沢一郎氏への西松建設の巨額献金事件についての続報等が、NHKニュースのTOPではなくなりつつある時期だが、「書きたい」と思いながらついつい日が過ぎてしまった。本日、このことについて書く。だが、僕は事件の「真相」がどうだという話を書きたいとは思っていない。そんなもん、わかるわけがない。書きたいことは以下の二つだけだ。
   
まずひとつめ。
   
今回、ニュースを見ていると、まず「合法」か「違法」かが問題となっている。まあ、当たり前の話で、みんなが「合法」だと思っているのならニュースにはならない。だが法律というものはやっかいなもので、「解釈の仕方」で同じ事件でも有罪になったり無罪になったりする。だから「行列のできる法律相談所」というテレビ番組も生まれるわけだが、起こったことは「事実」なのだ。西松建設から直接なのかOBの関連会社を経由するかということや、お金を受け取った団体がどういう団体なのかということや、それの収支報告が政治資金規制法からして要るのか要らないのかということは、今回の事件を「合法か違法か」という観点から見るのであれば重要なことなのかもしれないが、僕は、極論すれば、そんなもんどうでもいいことだと思っている。「西松建設側から小沢一郎氏側に多額のお金が動いた」ということが一番大事な「事実」なのではないだろうか。名目はどうあれ、その点に関しては小沢氏側も認めているのだから、これだけは間違いないだろう。
  
その「お金の動き」は、「合法」なら良いのか? もちろん、法律的には良いだろうが、なぜ、企業が政治家にお金を渡すのか? 確かに世の中には「善意の募金」も存在する。裕福な人が貧しい人を金銭面で援助することも多いだろう。だけど、小沢一郎氏や民主党は「貧しい」のか? こういう話を始めると必ず出てくるのが「政治にはお金がかかる」「選挙にはお金がかかる」という言葉だが、本当にお金が無いと良い政治はできないのか? 「きれいごとを言うな」と言われるかもしれない。では西松建設側は「日本の社会を良くしてほしい」という思いでお金を渡しているのか? 他の競争相手よりも多額のお金を準備する行為に私利私欲は微塵も無いと本気で思っている人がいたら、申し訳ないが、その人はたぶん馬鹿以外のなにものでもない。
   
自由民主党、そして民主党。その所属議員で、合法だろうが違法だろうが「企業献金」をまったく受け取っていない議員は、はたして何人いるのか? 小沢一郎氏の公設秘書が逮捕されると自民党議員がああでもないこうでもないと言い、二階俊博・経済産業相にも疑惑が及ぶと民主党議員が反論のボルテージを上げる。これこそまさしく「五十歩百歩」の見本ではないか。そして、その企業からの献金と政治活動の公平さに一点のくもりもないと主張できる議員ははたして何人いるのか? そして、仮にそれが「何も無い」なら、企業からの献金はなぜこの世に存在するのか尋ねてみたい。やっぱり「善意」という回答なの?
   
「政治家個人は違法だが、政党なら良い」「今回の事件をきっかけに、公共事業受注業者からの献金は禁止しよう」…… そんな話は、僕は聞きたくない。もっと進んで「企業献金全面禁止」とするべきではないのか? それで選挙ができないなら、選挙の仕組みを変えるべきだ。それで政治活動ができないなら、そんな政治家はやめてしまえ。「きれいごとで、現実に即していない」と言われることはわかっている。それでも、その「現実」に日本人は慣らされてしまっていないか? なぜその「現実」を受け入れることをよしとするのか?
「40km/h制限」の道路を本当に40km/hで走る車がいると、後ろの車はクラクションを鳴らす。あるいは追い越しをかけようとする。誰もが50km/h以上で走ることが当たり前になっているからだ。そして、こういう事例が最も顕著なのが日本人だということを聞いたことがある。良いことか悪いことかの前に「これが普通」という姿を見慣れると、その姿を攻撃はしないのに、逆にそれを問題にすることに対して「現実を知らない」「何もわかっちゃいない」と攻撃する。だけど、僕たちの生活に直結する「政治」を決めようとする「政治家」に対し、その姿は正しいのか?「政治家とカネ」という問題に関心を持たなくて良いのか? 今回の問題についても、「選挙に影響が出るか出ないか」「代表を辞任するかしないか」は、事実の本質とはなんら関係が無い。選挙で自民党が勝とうが民主党が勝とうが、民主党党首の顔が変わろうが変わるまいが、いずれにしろ「大企業重視」「アメリカ重視」そして「国民不在」の政治が代わることは無いのだから。
     
次に、ふたつめ。
    
小沢一郎氏について。これは、きわめて短く書く。
彼は、今は野党だが、言うまでもなく、元々は自由民主党幹事長、それも強権の幹事長として自民党を引っ張った人物であり、その後、おもしろおかしく、政党の脱退・解散・分裂・統一等を楽しむかのように、新生党代表幹事、新進党党首、自由党党首等をを歴任してきた人物である。自民党の「政治とカネ」という体質にどっぷり浸かっていた人間がこういうニュースになることに微塵の驚きも感じない僕としては、この事件に関するニュースの街頭インタビューで「信じられない」と答える人がいることのほうが信じられない。
     
おまけ
  
「書きたいこと」は上記の二つで、ここからは「おまけ」。
上記二つの内容から、僕が小沢一郎氏側に立っていないことは明らかだとは思うが、今回の「秘書逮捕」に関する「選挙前の時期を狙った検察側・権力側の思惑」という小沢氏の発言について、一言だけ書きたい。実は僕もそう思っているのだ。小説やドラマの中で「権力による犯罪」はありふれた出来事であり、実際の世の中にも、そういうことはいろいろなところで行われていると思っている。「CIA」「内閣調査室」がまともなことをやっているとはとても思えない。過去、自民党大物議員の巨悪の重要な証人が何人「自殺」したことか。ただ、僕は小沢氏も「権力側」の人物だとも思っている。だから、これは、「権力側」の内部抗争に過ぎないのではあるけれど。